日々の所感 ー 瀬尾まいこ 『図書館の神様』を読む

 

記事No.32

 今回の記事のカテゴリーは「日々の所感」です。
 館の住人(このブログの筆者)は、自分の日常はあまり話題にしてきませんでした。記事No.20こちらで、通信制大学で「図書館・情報学」のスクーリングを受講したとお伝えしただけです。
 ですが、人並みに本も読めば、映画も観ます。時々は美術館にも足を運ぶことや、テニスを楽しむこともあります。これからは、時折、読んだ本や美術展の感想なども記事にしていきたいと考えています。

 〈図書館〉と名のつく本が読みたいと思いつき、上尾市図書館の蔵書検索で、キーワードに〈図書館〉と入れてみました。思ったよりも多く、(図書/一般書)で絞り込んでも、1000件の検索結果が出てきます。そういうわけで、今記事では、上尾市図書館で借りて読んだ小説[瀬尾まいこ『図書館の神様』マガジンハウス,2003年]を取り上げてみたいと思います。

■『図書館の神様』あらすじ
 早川清(きよ)は、高校時代バレー部キャプテンでした。とにかく真剣にバレーと向き合っていた清には、練習試合でミスを重ねた補欠の山本さんに試合後厳しい言葉を投げつけたところ、その夜に彼女は自殺してしまったという忘れがたい経験があります。

 清はバレー部の顧問になろうと、高校の国語の講師(非正規採用)になりました。しかし、清の希望は叶わず、やむを得ず文芸部の顧問を務めることになったのですが、部員は垣内君という、スポーツ万能に見える3年の生徒ただひとりしかいません。国語の講師とはいえ、全く文学に興味の無い清でしたが、垣内君によって、しだいに文学の楽しみ方や奥の深さに気づかされていきます。

 一方、清にはお菓子教室で知り合い、不倫関係にある浅見という男がいます。浅見と一緒に過ごすことが清にとって唯一癒される時間でしたが、浅見が妻に気づかう〈正直さ〉に嫌気がさし、別れる決意をします。また、清には子どものときから何でも隠さず話せる弟の拓実がいます。拓実は、海を見たいという理由で清のアパートに度々来て泊まっていくなど、姉の生活に入り込んでいます。拓実は、清との会話の中で、平気で浅見との不倫関係を話題にするなど、浅見の存在を認めており、三人で食事をしたりもします。

 結局、清は浅見とは別れ、垣内君は高校を卒業します。

 小説の最後は、正規採用の試験に合格した清が、拓実と一緒に海に落ちる夕日を眺め、「神様のいる場所はきっとたくさんある。私を救ってくれるものもちゃんとそこにある」という台詞で終わります。

■誰に(何に)焦点を当てて読むのか
 小説のどの部分に、あるいは登場人物の中の誰を焦点化するかによって、読み方が違ってきます。『図書館の神様』では、清・浅見・垣内君・拓実それぞれの視点から読み直せば、また違った解釈の物語になるでしょう。例えば、清は、次のような考えを持っています。

 「どうして私が文芸部の顧問なのだ。担当教科が国語だから?
だったら困る。別に国語が得意なわけじゃない。文学なんて全く興味がない。小説どころか雑誌や漫画すら読まない。確かに私は文学部出身だ。でも、大学進学を間近に進路変更をした私は、日本人が日本語を勉強するという最も簡単そうな道を選んだだけだ」

 このように本音を語る清は、実に正直な人ではありませんか。

 この部分を読んだとき、知人で、県の数学の指導主事になった職員が本心から「実は私は数学が大の苦手」と言っていたことを思い出しました。それは、現在の小学校の英語教育に疑問を持っている館の住人が、情報公開請求で市教委指導主事と面談するたびに「英語指導に自信がありますか?」と尋ねると、指導主事たちは一様に首を横に振り「いいえ、苦手です」と謙遜でなく本音で答えるのと共通します。

■図書室に関しての記述
 少し視点を変え、小説の中で描かれている〈図書室〉に焦点を当ててみましょう。例えば、こんな記述がされています。

「図書室のドアを開けると、本の匂いが鼻をつく。かびくさい濁った匂い。漂ったこの空気は苦手だ」

「自分が生徒の頃には図書室なんてまったく寄りつかなかった。昼休みはいつも体育館で過ごしていたし、読書感想文の宿題が出る夏休み前に本を借りる程度だった」

閑散とした図書室

「『はだしのゲン』は二回も繰り返し読むと、さすがに飽きた。学校の図書室には第一部の十巻までしか置いていない。次の図書予算で、第二部を購入してもらおう。私は密かに決心をすると、二回じっくり読んだ『はだしのゲン』を棚に戻した」

「日本文学全集から世界文学全集。世界各国の資料から天文学や科学の資料。新しい読み物だってたくさんある。図書費用は年間何十万と入るから、図書室はとても充実している。だけど、本を読む癖が昔から付いていないせいか、ぎっしり詰まっている図書室の本にも私はちっともそそられなかった」

「(垣内君の発話)この図書室、本の並びが悪いと思いませんか?
そもそも日本十進分類法なんて今の高校生のニーズに合っていない。探しにくくて仕方ないでしょう。教科別に並べ替えましょう」

小説に書かれたこれらの記述から、この高校の図書室は
*ほとんど利用する生徒がいない。
*図書予算は確保されているので、それなりに選書できる。
(何十万円という予算が果たして多いのかという問題はありますが)
*どうやら、図書館司書はいないようである。
*垣内君は、日本十進分類法による分類には否定的である。
といったことがわかります。

 公共図書館の99%が使用していると言われる「日本十進分類法」に基づく図書の分類・整理について、自分たちの都合で変えてしまうことは、かなり大胆なような気がしますが、〈常識〉にとらわれず、柔軟な発想という意味では、傾聴に値するとも言えます。

 一方で、予算の範囲内で図書館に置くべき図書の選択が現場に任されているという実態もうかがえます。上尾の例で言えば、資格を有しているという理由で「司書教諭」に発令された担当者(数学の教師が司書教諭になっている場合なども散見されます)が、購入する図書の希望を募っても、他の教員も忙しいことから、なかなか希望が出てこないので大変苦労しているという話も聞きます。

■作者の意図
 この小説に限らず、作者が読者に何を伝えたかったのかを考えることのほうが、読み方としては一般的でしょう。その意味では、作者はタイトルこそ『図書館の神様』となっているものの、〈図書館〉そのものについての記述や、描かれ方に関心を寄せている読者がいるとは想定していないかもしれません。

 小説の中で、垣内君は卒業前の文芸部の発表で、用意してきた原稿をポケットにしまい、大きな声で次のように発言します。

 「文学を通せば、何年も前に生きてた人と同じものを見れるんだ。 見ず知らずの女の人に恋することだってできる。自分の中のものを切り出してくることだってできる。とにかくそこにいながらにして、たいていのことができてしまう

 作者が垣内君を通して読者に伝えたかったことは、このことかもしれません。

 小説ではありませんが、上尾図書館には『天使のいる図書館』という映画のDVDも置いてありますが、その話は別の機会にでも。