「学校だより」から見える校長の姿勢

毎月配布される上尾市内小中学校の「学校だより」。
1ページ目の冒頭では、校長が「学校行事について」や「子どもたちの様子」あるいは「時の話題」など、何かしら書いているのが常です。
今記事は、「学校だより 7月号」に掲載されている校長の文章を読んだ感想などを私なりにコメントします。
とりわけ、無理やり強行されようとしている東京オリパラについて、「学校だより」のネタとして取り上げているかどうかに着目しました。

No.172

🔷「学校だより」は市教委のHPから閲覧可
前記事でもお伝えした上尾市教委HPのトップページ。上の段の真ん中に「市立幼稚園・小中学校」のバナーがあります。ここから各学校のHPに行けますので、「学校だより」を閲覧することができます。

🔷「東京オリパラ」関連話は小学校3校で
上尾市内の小中学校は33校(向原分校は東中にカウント)。
そのうち、「学校だより 7月号」がまだ学校のHPに掲載されていない学校は、小学校で2校あります(7月16日午後5時現在)。
今回、「東京オリパラ」に触れている学校は、小学校で3校でした。
中学校では、9校が「学校総合体育大会上尾市予選会」を話題にしています。曰く、「3年生は部活の最後の大会は終わってしまいましたが、たとえ負けたとしても、次の目標(高校受験)があるので頑張ろう」といった話がほとんどです(ただし、校長の文章が、中学生にどの程度影響を与えたのかについての検証は全くされていないのが常です)。

小学校3校では「東京オリパラ」について、どのような視点で語られたのでしょうか。うち、平方北小の「学校だより」では「東京オリンピックをひかえ……新型コロナ感染拡大が治まらず……誰もが複雑な心境で7月を迎えています」という、「ありきたりな」記述となっています。
そこで、あとの2校について見ていきます。

🔷疑問が生じる尾山台小校長の記述
尾山台小の「学校だより」の校長の文章、タイトルは「世界の動きを感じながら自分を高める」とはなっていますが、「世界の動き」に関しての記述はほとんどありません。文章の半分以上は「この夏東京で開かれる予定の夏季オリンピック」についての話です。
とりわけ、問題だと思う記述は、次の点です(いずれも原文ママ。ただし原文に朱書き等の色替えはありません)。

感染拡大を抑えながらいかに開催できるか、民力の高いと言われる日本人がどう開催するのか、世界が注目しているところであります。

まず、「民力の高いと言われる日本人」の出典が明確ではありません。
「広辞苑無料検索」では、【民力】とは、「国民の経済力や労働力」となっています。また、国立国会図書館のリサーチ・ナビでは、次のような説明がされています。

『民力』(朝日新聞出版 年刊)   都道府県別、エリア別、市町村別にさまざまな統計資料をとりまとめ、民力(人々の経済的な力)を多角的に測定することを目指した、エリアマーケティングの基礎資料です。2015年版をもって刊行を終了しました。

これらの説明にあるように、「民力」を「人々の経済的な力や労働力」と置き換えて、校長の文章を今一度読むと、「いったい何を言いたいのかよくわからない」と言わざるを得ません。
「経済的な力で感染を抑える」とはどういう意味なのでしょうか?
ましてや、「人々の労働力」とオリパラ開催との関連性は?

もうひとつの疑問があります。それは次の文です。

普段は当たり前すぎて気づくことすら少ない、日本人としての一体感や、喜び、自信といったものから、おもてなしや人の和を大切にする民族としての誇りを、子供たちと一緒に感じたいものです。

この記述については、疑問というよりは、非常に問題だと言えます。
まず、「日本人としての一体感」とは、だれを対象にして言っているのでしょうか。言うまでもなく、日本に居住している人は、「日本人」だけではありません。そういう方たちは、「一体感」から排除するというのでしょうか。
また、「おもてなしや人の和を大切にする民族」とは、どういう意味なのでしょうか。これについても出典は明らかにされていません。

思い出すのは、昨年の1月、選挙区での麻生太郎財務相の発言です。

…だから2000年の長きにわたって、一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いているのはここしかない。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてほしい。

実はこの発言の前に、「平成31年法律第16号」で、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律が成立しているのです。
麻生財務相の発言は、こうした背景をも無視するものでしたが、
尾山台小の校長の記述は、これに近いものがあるのではないでしょうか。

🔷原市南小校長のお気に入りは池江選手の話?
原市南小の校長の文章は、本人が「度々、競泳の池江璃花子選手の話を本紙面に登場させている」と記述しているように、池江選手の話がお気に入りのようです。私は「学校だより 7月号」しか見ていませんが、「度々登場させている」と校長が行っていることから、おそらく、池江選手の「努力は必ず報われる」発言についても、どこかの機会で何かコメントしているのだと思います。私は池江選手が闘病の末、水泳選手としてカムバックしたことにあれこれ言うつもりはありません。相当な努力を重ねてきたと思いますし、それを否定するものではありません。
ですが、それでも、「努力は必ず報われる」という言葉には、少なからず違和感を覚えます。現在、コロナ禍ということもあり、経済的に困窮し、進学をあきらめたり、大学を中退せざるを得ない若者も増えているという報道もされています。
今の日本は、国の愚策により、そうした若者の希望の芽を摘んでしまっている現実では、「努力は必ず報われる」とはとても言えません。

池江選手は株式会社ジエブの所属アスリート」であり、ボクシングの村田諒太選手、水泳の瀬戸大也選手もジエブ所属です。ジエブのHPには、「dentsu ジエブ」のタイトルの下に池江選手の顔写真が掲載されています。
また、HPの「企業情報」に、「ジエブは、電通の国内外のスポーツビジネス体制強化のため2011年7月に電通グループの一員に加わりました」とあります。つまり、池江選手は、電通との親和性が極めて深いのは、まぎれの無い事実です。
また、「電通の、電通による、電通のための五輪」と言われるくらい、電通が東京オリンピックに深く関与していることも周知の事実です。
池江選手はじめジエブ所属のアスリートは、東京オリパラについて何か発言すること、とりわけ批判めいたことを口にすることなど、あり得ないという状況なのです。
そうした背景を原市南小の校長は知っていて「ピンチをチャンスに」などと、池江選手の話を引き合いに出しているのでしょうか。

🔷避けなければいけない「ステレオタイプの見方」
尾山台小の校長の文にある「〇〇する民族」などの見方は、社会心理学では「ステレオタイプ」と呼ばれるものです。「ドイツ人は勤勉だ」「ブラジル人はサッカーが上手い」なども同様の見方です。
「ステレオタイプ」とは、ウォルター・リップマンという社会心理学者が生み出した言葉として知られています。彼の著書『世論』には、次の記述があります

 われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。

「血液型のO型は社交的だ」などとネタにする程度であれば、コミュニケーションのひとつのあり方と笑っていられますが、「これはこうだ」「こうに違いない」という「ステレオタイプ的」な見方を、学校の校長がするべきではないと私は思います。
言葉の使い方を、その意味や背景を含め、正しく教える」というのは、学校教育の基本だと思うのですが、いかがでしょうか。

来月の「学校だより 8月号」では、オリパラについて何か書く校長がいるのでしょうか。引き続き見ていくことにします。